六道珍皇寺と小野篁の不思議な伝説

わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船 小野篁が流刑地の隠岐に流されるときに詠んだ歌 【小倉百人一首より】

小野篁とは

本堂背後の庭内にある
「小野篁冥土通いの井戸」

小野篁(802年〜852年)は参議小野岑守の子。嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られる。文章生より東宮学士などを経て閣僚級である参議という高位にまでなった文武両道に優れた人物であったが、不羈な性格で、「野狂」ともいわれ奇行が多く、遣唐副使にも任じられたが、大使の藤原常嗣と争い、嵯峨上皇の怒りにふれて隠岐に流罪されたこともある。

閻魔王宮の役人

篁堂に安置する衣冠束帯姿の
小野篁立像(江戸時代)

また、なぜか閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説がある。かかる伝説は、大江匡房の口述を筆録した「江談抄」や「今昔物語」「元亨釈書」等にもみえることより平安末期頃には篁が、閻魔庁における第二の冥官であったとする伝説がすでに語りつたえられていたことがうかがえる。こうした篁の冥官説は、室町時代にはほぼ定着した。
今なお、本堂背後の庭内には、篁が冥土へ通うのに使ったという井戸があり、近年旧境内地より冥土から帰るのに使った「黄泉がえりの井戸」が発見された。そばには篁の念持仏を祀った竹林大明神の小祠がある。

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